父の一周忌

 先日の月曜日(海の日)に、父の一周忌を行ないました。本当なら親戚の人を呼んで、座敷を設けて…と言いたいところですが、親戚はみんな高齢だし、何より父の代で家系は終わり、跡をとるものがいないということもあって、ひそやかに行ないました。

1月から日取りを決めていました。住職さんからは、なるべく年忌が浅い間は、亡くなられた日に近い日取りを組むようにと言われたのですが、夏休みになると予定もあって結局2週間も早めて、16日にしたのです。その時はまだ母も元気でした。当日の予定を早くから考えていたようです。でも、この日、母はもういません。

わたしたち親子4人と姉夫婦、そして母の妹夫婦だけでお寺に行って、その後お墓参りをしただけです。本当ならここに母がいて、みんなで終わった後、食事をする予定でした。毎日の日常生活では、母のことばかり考えてはいられませんが、こういう節目節目にいないという事実を突きつけられます。

生きたくて生きたくて、でも生きられなかった父、病気と戦いながら最期まで生への執着があったようで、何回もう駄目だと思ったことか、でもわたしたちの予想を越えて生きました。

逆に、呆気なく本当に呆気なく逝ってしまった母。ある意味では本人が望んでいたとおりになったわけなのです。そして悲しいことにふたりとも最期の言葉というのをわたしたちが聞くことはなかったのです。

全く正反対の両親の最期、だからなのか、なぜかふたりを偲ぶとき、その思いが違うのです。そして夏が来ると、どうしても思い出してしまうのです。父が告知を受けた夏、そして逝った夏。どっちも辛い夏でした。

だから、ね。今年はわたしたちにとって楽しい夏の思い出をどうか作らせてくださいね。子どもたちのためにも、わたしのためにも^^

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四十九日と納骨

 心配していた台風もそれて、どんよりとした曇り空の中、何とか無事に昨日、父の四十九日の法要と納骨を終えました。法要と言っても、「あげ法事」です。もう実家は1年近く、ほったらかしで電気も水道も止めています。なので、お寺に出向いていって、そこで法要をし、後はお墓に納骨をする、わずか1時間半で終わりました。その後はわたしたち親子と姉夫婦、そして母の7人で昼食を食べただけ、親戚の方たちは体調のすぐれない方も多く、どこかで食事の場を設けるのも、止めました。特に父の姉妹たちは、みんな身体の弱い方が多いので、最初に法事の連絡をしたときも即答で「誰も行けないから…」と言われたぐらい。

でも当日は何とか4組の叔父や叔母、姪っ子なども来てくれて、大勢にはなりましたが。親戚付き合いって難しい。特にわたしの両親の時代はみんな兄弟が多くて、(ちなみに父は8人兄弟、母は4人兄弟です)こういう時は、色々大変です^^;

しかしなぜか、わたしの主人にはこのやり方がすごく気に入らないらしく、3日ほど前にこの事を話してからすこぶる機嫌が悪い。昨日は朝から最悪でした。そしてその矛先がナツやユウに…。ちょっとしたことで怒るし、ブスッとしているし…。主人の場合、わたしの親戚のことで動くことはとにかくあまり好きではない。誰が誰で、どういう関係でどういう挨拶をしたらいいのか、全くわからないから…というのもあるみたいです。気を使って疲れる、それもわかります。

そもそも四十九日からいきなりあげ法事、それが気に入らないみたいなのですが、今回の場合、これしか方法がない、それはわたしはようくわかっています。最終的には母が決めたことで、わたしたちはそのやり方をお手伝いするしかないのですが、主人は一般論で話してきます。「そんなのおかしい、そんな話、聞いたこともない」。でもむこうにはむこうの事情がある。これはどこまで行っても平行線。そもそもお葬式の時ぐらいから、どうも主人の側の今までの親戚のやり方とわたしたちの方のやり方にはずれがある。

でも主人の方の親戚づきあいは、わたしにはわかりません。まだ義母が健在なのでわたしなんて出る幕はありません。だからどういうものかなんて全然わかりません。それにそれはそれで、こっちはこっちでいいじゃない…というのですが、主人には通用しない。

話は戻ります。とはいえ、子どもではないのですから実際に始まってしまうと、きちんと振舞ってはくれますし、他の人に対してはそんなそぶりなど一切見せません。

「納骨」って行なったのは初めてです。墓石を動かして(あんなところが動くの?っていう感じ)、そこに骨壷から出した父の遺骨を布の袋に移して、その袋ごとお墓の中に納めました。袋はいずれは溶けて、遺骨と一緒に土に帰るそうです。これで父は無事にお墓に入ることができました。このお墓は、平成15年の2月に両親が建立したものです。でもまさかそれから3年後に自分がそこに入ることになるなんて…まさか夢にも思っていなかったことでしょう。その事を考えるとやはり早すぎた別れに涙がでます。でも誰しも生きている限り3年後の自分に保証なんてないのです。今から3年経ったら、こうして今は元気で集まってくれている親戚の人の中にも、もうこの世にいない人ができているかもしれません。

それを思うと、今この一瞬一瞬を大事に生きていかないといけないなぁとしみじみ思いました。そう、つまらないことで夫婦喧嘩している場合ではないのです。とはいえ、昨日から今朝、まともに口もきいていないわたしたちです。四十九日のことでもめるなんて、さぞかし父もお墓の下であきれていることでしょうね^^;

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初命日(ひはじめ)

 「初命日」と書いて、ひはじめと読むそうです。今日がそれでした。1ヶ月前の今日、父が亡くなった日です。早いものでもう1ヶ月が過ぎました。このひはじめにお寺に行って法要を行なうのは、わたしたちの地域だけだそうです。今日は一日中、1ヶ月前の今頃は…って思い出しながら、過ごしていました。

今でも時々母は言います。「お父さんはどうしてあんな病気になってしまったんだろう」って。父の死因は直腸ガンですが、その中でも性質の悪いガンで正式な名前は「Signetringshellガン」という名前でした(スペルは確かではないかも知れません)。このガン、主治医の先生の話では10年ぐらい前にひとつのガン細胞が発生し、それが10年の歳月の中で、気づかれず少しずつ大きくなって、そして直腸の閉塞という症状になって発見されたのだと。この病気がわかったのは昨年の8月16日でした。

しかし父はその3ヶ月前の5月終わりに、同じ病院で下部内視鏡の検査を受けていました。でも異常なしで終わったのです。その後すぐにひどい便秘に悩まされ、内科に入院しました。どんな下剤も全く効果なく、痛みで食事も採れなくなってしまったのです。7月19日でした。その時の入院計画書には病名、「便秘」。入院予定期間、「1週間(?)」と書かれていました。わたしたちもたかが便秘と甘く考えていました。すぐに退院できると…。

でも入院してどんな薬や治療方法を試みても、改善しません。それどころか出ない、食べられないで段々体力も消耗していきました。絶食で毎日点滴。でも検査はほんの3ヶ月前に受けているので、先生方もガンを全く疑っていなかったのです。8月の10日頃になって、もう内科的治療では無理ということで、同じ病院の外科の診察に廻されました。そこで、手術が決まり、人工肛門をつけることになり、8月16日転科、19日に手術と決まりました。手術の詳細を決めるために、再び内視鏡の検査を受けその時に細胞診を行いその結果、ガン細胞が見つかったのです。その事がわかったのは8月16日。最初に内科に入院にして既に1ヶ月が過ぎていました。

主治医から手術の説明がありますからと呼ばれて、初めてその事を聞かされた時は頭の中が真っ白になりました。先生に、どうして3ヶ月前の検査では発見できなかったのですかと詰め寄りました。このタイプのガンが直腸にできることは、非常に珍しく、内視鏡では発見できないタイプのガンなんですと説明を受けました。通常、胃にできてそれが転移して腸にできることはよくあるようです。その場合は胃の検査で発見されます。父の場合も急遽、胃の検査も受けたそうですが、胃には異常がなく直腸が原発でした。「非常に珍しい症例です」と何度も言われました。

実際に8月19日に手術が行われました。そのガンを取り除く予定でした。でも、予想よりも広がりが大きく骨盤に癒着がありました。それをはがすのは大出血の危険が大きくて手が付けられない状況でした。ガン細胞はそのままに、人工肛門を造っただけで手術は終わりました。予定時間よりもはるかに早く終わりました。

父にはしばらくして少し回復してから、この事実が告げられました。ただ、広がりすぎていて手が付けられないとは言わないで、予想より大きかったので今無理に剥がして取るより、抗がん剤で少しガンを小さくしてから取ることになりました、と主治医の先生からうまく説明していただきました。わたしたちには、本当に辛い日々でした。毎年、健康診断を受け、何か異常を感じたらすぐに検査も受けていたのに、こんな状態になってしまったこと、入院から1ヶ月、その間にもガンが大きくなっていたのでは、そして無駄な1ヶ月を過ごしたこと、急なガンの告知、それも手遅れだという、どうして?という思い。過ぎたことを考えても仕方がない、これからどうしたらいいのという不安。

この頃、母は別の病院に入院していました。いろいろなことがストレスになって、内科にいた頃付き添っていたことで、すっかり体調を崩し、1週間ほど入院していました。だから父の病状も手術の結果も母には随分後になってから知らせることになりました。そんな状況でとにかくわたしがしっかりしないと…そればかりを自分に言い聞かせた毎日でした。今思っても胸が痛くなります。

父が亡くなってから1ヶ月、少しずつですがこうした辛い記憶が薄れていくことに気がつきました。実際に忘れていかなければ辛すぎて毎日泣いてばかりいても仕方がありません。でもそんな中で楽しかった思い出は忘れないで心に留めておきたいなぁとも思います。

人の記憶の中でこれは忘れ去りたい、このことはいつまでも覚えておきたい、そういうふるいがあるといいのにな…そんな都合のいい事を考えながら、帰路につきました。

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8月4日のこと

 お通夜とはいえ、かなり眠ることができました。遅くまではしゃいでいたナツとユウは8時過ぎまで寝ていました。朝食は会館の方で予約をしておけば用意してくれます。和食のバイキングでした。ここにきて少しナツの食欲が落ちました。寝不足になってきているようです。当然打つ単位に困ります。少なめに…少なめに…。

9時前から、わたしと母と姉は喪服に着付けてもらいます。子どもたちは退屈なのでまたお風呂に入っています。開式は10時45分、わたしたち親族が式場に入るのが10時の予定です。10時前に測定させると160でした。何か少しでも食べておくほうが安心なのですが、正直もうそこまで頭が働かないのです。式場はクーラーがよくきいていて、ナツはしきりに寒がります。念のため読経の続く中で、ブドウ糖を補食させました。インスリンや補食を入れたかばんは、いつもどおりリュックにして背負わせました。こういう時は、いつも大きなかばんに何でも詰め込んで持ち歩いているわたしはすごく不安です。

滞りなく式も終わり、斎場へと向かいます。実はこのときに、集まったお香典をどうするかということで、結局ナツのインスリンのリュックにできるだけコンパクトにして詰めて持たせてもらうことにしました。会館のほうでは一切預かってくれません。親戚の誰かに頼むということも普通はしないようです。もし事故があった時に困るからと…かといってわたしたち親族が持つと目立ちすぎるし、他に位牌やら写真やら持つ物があって持つことができません。それでナツのインスリンのかばんの事を説明して、その中に入れてもらうと絶対に置き忘れることもないし怪しまれることもないので、そうしてもらうことにしました。

斎場に着くと、12時半。ここで骨上げまでの約2時間、親戚の方たちに寿司折を配って、控え室でみんなで昼食をとります。わたしと姉と母は、喪服から服に着替えるため、席をはずしました。ナツのインスリンのことは主人に頼みました。この時の食前の血糖が70でした。またしても二桁。やっぱり葬儀の最中とはいえ、補食は正解でした。そしてまたもインスリンの単位に悩みます。でも本当にこの3日間、こんな状況の中で今思うと素晴らしいコントロールができました。亡くなった父がナツの事を見守っていってくれている。そう思うようにしています。

そうそう、わたしの携帯電話が父が亡くなって、その連絡をみんなにした後で突然、壊れてしまいました。うんともすんとも言いません。落としたわけでも水にぬらしたわけでもなく、まだ買い換えて1年も経っていないというのに…実は主人は通信関係の会社に勤めています。色々調べてくれましたが、原因はわかりません。仕方がなく今は修理に出しています。いつもいつも病院からの電話、学校からの電話を気にして、もち続けていた携帯。まるで役目が終わったからもういいでしょうって言っているかのようです。

父はこうして、小さな小さな遺骨になって、今は母の部屋でおまつりしています。施設の中なので十分なことはできません。法事もお寺で家族だけで済ませていくつもりです。事情は父が一番よくわかってくれていると思います。後は残された母が少しずつ、これからの生活や楽しみを考えていってくれたら…そう思いながら、大変だった3日間が終わりました。

父の入院から本当にあわただしい毎日でした。でも、父が無理矢理退院して帰ってきたことも、また入院したことも、今思うと正解でした。一番いい選択だったと思います。車椅子で入院した父は、そのままベッドに横になって、結局最期までスリッパを履くことはなく、ベッドの上だけの1週間でした。入院中の父の様子は詳しくはわかりません。ただ暴言を吐いて、無理に退院したにもかかわらず、看護師さんたちはとても親切にしてくださったようです。父が亡くなったときに泣いてくださった看護師さんもおられます。最初は何やかやあった主治医の先生ですが、最期には本当によくしていただいたと感謝しています。

そして最後まで付き合って読んでくださった皆様、本当に本当にありがとうございました。

明日からはまた楽しいブログをつづっていけるよう、頑張っていきます。

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8月3日のこと

 この1年、朝目が覚めると、今日は外来に行く日だとか、今日は実家に行く日だとか、今日は行かなくていい日だったとか、真っ先に頭に浮かぶのは、実家がらみの予定。そして今日も疲れているはずなのに、5時半頃目が覚めて、「そうだ、お父さんは亡くなったんだ」って思いました。そして今夜はお通夜なんだって。

午前中のわたしたちの仕事、父の貯金をおろすこと。父が余命を宣告されてから、少しずつ父名義の預貯金の整理をしていました。これに関してはうわさは色々で、亡くなったらすぐに預金が下ろせなくなるとか、国に全部とられるとか、相続税がかかるとか…はっきりしたことがわからないまま、どっちにしても引き落としや振込みのある口座は解約できないので、そのままにしていました。そして昨日会館の人がおっしゃるには、死亡届を3日の午後、市役所に届けます。そうすると預貯金の解約や引き出しが全て止められるので、午前中なら間に合いますとのことでした。なのでわたしたちは、父の施設の部屋に行って、印鑑と身元証明になるものを持って、郵便局へ向かいました。

父の部屋はそのままでした。ベッドもテーブルも全てそのままでした。とうとうここに戻って来れなかった父の悔しさを思うとまた涙が出そうになります。でも泣いている暇もなく、今日は色々予定が詰まっています。午後1時から、いよいよ父の身体を洗ってもらい、納棺です。それに間に合うように昼食を済ませ会館へ向かいます。

わたしは祖父や祖母の葬儀を経験していますが、その頃は自宅で行なっていました。だからこういう会館でのお通夜や葬儀は初めての経験です。会館の部屋は本当に広くてここで寝泊りできるように、お風呂、トイレ、洗面所、更衣室、ベッドルーム、応接セットがあり、まるで旅館の特別室のようです。10名分の布団も用意されています。ナツとユウはこの部屋を気に入って、はしゃぎまわっています。ベッドルームはまるで、ホテルのスイートルームのようにふかふかのベッド。まるで旅行気分です。そもそも家以外の場所で寝る。それだけでも嬉しくてたまらないのですから…

そして時々父の遺体を覗きに行ったりお線香を上げたり、そうこうしているうちにお通夜の時間になり、弔問の親戚も次々に来られました。お通夜は短い時間なので、始まる前に測定して、何も持たずに参列させました。無事お通夜も終わり、食事です。オードブルやお寿司がずらっと並べられたテーブルにまた興奮。

「お母さん、マグロのお寿司がいっぱいあったよ。エビフライがあったよ。」という具合。

この時は、一体ナツがどれぐらい食べたのか、どこでインスリンを打ったのか全く覚えていません。泊まっていただける親戚以外の方々が帰られると、今度はお風呂に入りたいと言って主人に用意してもらい2人でしばらくお風呂場で遊んでいました。

不思議とこの3日間、特別高い血糖値を出さずに、過ごしていました。アイスやおやつを食べる時間がなかったせいでしょう。代りに低い値はよく出しました。この前の外来でインスリンを減らしましょうってあんなに言われていたのに…また怒られるよ~。

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8月2日のこと

 前夜からわたしはナツとユウと一緒に病院に泊まりこんでいました。心電モニターは、音が気になって眠れないだろうと画面を切ってくれました。もちろんナースステーションではずっとチェックしてもらっています。こうして病院の簡易ベッドに横になっていると、2年前の秋、ナツがIDDMを発症して入院した時のことがよみがえってきます。この時もわたしはこうして病室のナツのベッドの横で2週間泊り込みました。だから不思議と緊張感がなくて、むしろ自宅で携帯を枕元において眠ったこの1週間(父はちょうど1週間前に入院しました)よりも安心して眠ることができました。もちろん何度も目が覚めては父の様子を覗き込みながら…ですが。夜間はこれといった変化もなく無事に夜が明けました。

5時になってカーテンを開けると空がもう白んでいたので、母を呼ぶことにしました。病室で母にも十分に父と話す時間がとれて、やっとわたしは自分の役目を無事に終えたかなと思いました。6時過ぎ、特に異変もないので、近くのコンビニでおにぎりやサンドイッチを買って病室で食べました。起きてきたふたりもここで朝食です。こんなときでもナツは普通に血糖を測り、きちんと朝食をとり、そしてインスリンを打つ。もちろんナツがほとんどの事をひとりでできるから、いいのです。一体血糖がどれぐらいだったのか、何単位打たせたのか全く覚えていません。この日から3日間、血糖測定表もブランクです。でもとにかくこういう時だから、高めにコントロールさせないと…それだけは考えていました。

7時ごろ、父の呼吸が苦しそうになりました。肩で息をするようになりました。10時ごろ、痛そうに顔をしかめることがあったので、看護師さんに痛み止めのモルヒネを入れてもらえないかと尋ねました。前夜の7時でモルヒネの点滴は切られました。もちろん体内に残っているのですぐに痛み出すことはないにしても既に12時間がたっています。痛がらないのがかえって不思議なのです。病棟リーダーの看護師さんが来られました。

「もうすぐ心臓が止まるんです。もうモルヒネは必要ないんですよ」と言って、心電モニターをつけてくれました。そこには前夜の心拍の動きとは全く違う不規則な心拍の波、鳴りっぱなしのアラーム。素人のわたしたちがみても、これから起こることは想像がつきます。この波形が一直線になる、そしたら父はこの苦しみや今までの痛みから解放される。正直ホッとしたのです。少しでも早く楽にしてあげたい…心の底からそう思いました。

でも看護師さんの予想をはるかに上回って、父は頑張りました。お陰で11時に着いた姉も、午後に着いた主人も間に合うことができました。午前中外来だった主治医の先生も午後には病室に顔を出してくれました。看護長さん、内科部長さん、それぞれの方が病室を覗いてくださいました。そして午後3時44分、父は息を引き取りました。

「よく頑張られました。」主治医の先生が言われました。

部屋を出されたわたしたちは、階段の踊り場で会館やお寺、親戚の人たちに連絡をとりました。そして1時間後、会館の車に迎えに来てもらい、病院を後にしました。1週間前には、少しでも元気になってもう一度帰ってくることを望んで入院しましたが、とうとう父は自分の足で病院を出ることはありませんでした。父が病院で亡くなった場合に父の遺体を一度施設の部屋に連れて帰るかどうか、随分悩みましたが、父は自分の家と違い、施設には愛着を持っていませんでした。なのでそのまま会館に運んでそこの部屋でお悔やみを受けることにしました。

前夜からずっと狭い病室でこもりきりだったナツとユウはやっと出ることができてはしゃいでいます。わかっているのか、わかっていないのか、それとも十分すぎるぐらい覚悟ができていたからか、子どもたちには動揺はありませんでした。次々と親戚の方が駆けつけてこられます。それと平行して葬儀の打ち合わせが山ほどあります。気がつけば8時を過ぎていました。とりあえず主人と子どもたちだけ近くのファミレスで夕食をとりました。

そして気がつけば9時過ぎ、親戚の方はまだいましたが、わたしたちは帰ることにしました。今夜は母と姉がこの会館の部屋に泊まることになっています。思えばわたしと子どもたちは、昨日からお風呂にも入らず、歯も磨かず食事はコンビニのおにぎりばかりでした。しかもランタス、今日は忘れるところでした。

「ナツ、ランタス打つ時間やん、ここで打ってから帰ろうか」

こんな時、ナツがどこでも注射ができるということは本当に助かります。5、6名の親戚の人たちを前に涼しい顔で足にランタスを打ちます。いつかはこの日がくることを考えて、親戚のおばやおじにも、ナツのIDDMのことは少しずつ機会があれば話しています。みんな黙って見守ってくれます。

「これが最新式のインスリンなのよ」と、わたしも自然に言います。

この日、自宅に帰ったのは10時過ぎでした。長い長い1日が終わりました。

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8月1日のこと

 7月26日入院した父は、1日1日弱っていきました。おそらくわたしたち家族と普通に会話ができたのは今思えば30日の日曜日まででした。この日はナツのプレキャンの日だったので、4人で病院を訪れ、ナツと主人とユウがプレキャンにいった後、しばらく付き添ってやれました。午後からは姉夫婦が母を連れてきてくれました。

31日はナツたちの町水泳がなかったので、朝から母のところへ行って、昼食をとってから母を連れて病院へ行きました。この日から父のモルヒネの痛み止めが貼り薬から点滴に換わりました。これで痛みが出た時も薬を飲まないで点滴の速度をあげることで痛みを可能な限り押さえることができます。が、これで父の一時退院や外泊の可能性がなくなってしまうということです。痛みがコントロールしやすくなったはずなのに、父は激しく痛みを訴えます。目を覚ますと痛みに苦しんでいます。そんな状態で話もできずに帰りました。

消化器系の末期ガンの場合、辛いのが痛みと吐き気。何も口にしていないのに、胃や腸で分泌される消化液が下に下りないで、上がってくるからです。そしてその消化液の分泌を抑えるホルモンを皮下持続注で体内に入れることが昨年から保険適用になったということで、主治医の先生からその治療法の提案がありました。多くの患者さんで効果があり吐き気がおさまるようです。ただ身体に付く針やチューブがまた1本増えてしまいます。

火曜日は、午後からわたしとナツだけで病院に行きました。その皮下持続注が早速取り付けられていました。なんとそれはニプロのインスリンポンプでした。(中身はインスリンではないホルモンですが)まさかここでインスリンポンプに出会えるなんて思ってもいませんでした。IDDMの方たちのポンプとは多分違うとは思います。大きいし重かったです。父の場合、お腹に針を刺して、ベッドの上にポンプを置いていました。でも看護師さんの話では、このポンプにも一応携帯用のポシェットのようなものがついているのだとか…

このポンプのお陰で吐き気はかなりおさまったようです。でも父の様子は昨日とは打って変わって悪くなっていました。目に光がない。わたしたちがわからない。そのかわり痛がったり苦しがったりはしていませんが、正直あまりにも変わり果てた父の姿に涙が止まらないのです。1時間ほどいましたが、看護師さんが体位を変えたときだけ痛みを訴え、正気に返ったようで、その5分ぐらいの間しか話ができませんでした。それ以外の時間、それはまるで父ではない。そう思いました。

パジャマにびっしょり汗をかいていました。それなのに指の先が真っ白で冷たい。看護師さんが悪い汗やね…とつぶやいていました。今思うと危篤の前兆でした。

そして夕食を終えた7時過ぎ。担当の看護師さんから電話。夕方から吐血が始まったこと。酸素濃度が下がったことを聞かされました。今夜が危ないかもしれませんと…

とにかく今から病院に行きますと答えると、今すぐにどうこうはないですが、何とも言えません。あわてないで病院に来てくださいと言われました。

すぐに母と姉には連絡しました。最後には病院に泊まるといっていた母ですが、意外にもこのことを話しても「でも病院には行けないわ」という返事。後からわかったことですが、実は母はこの時のわたしの電話はほとんど覚えていません。寝ぼけていたようです。仕方がないので、わたしが泊まる準備をして病院へ向かいました。そしてどうしてもついていくといって聞かないナツとユウ。やむをえず3人で病院へ向かいました。

父の病室に入ると、お昼よりもさらにものものしい雰囲気でした。酸素チューブが付けられ、心電モニターが動いていました。主治医の先生の話では、夕方からの嘔吐は、今までとは違い吐血です、つまり腸管に穴が開き、腹腔内に出血してそれを吐血していると。そして酸素濃度も落ちて呼吸が苦しいので、モルヒネを7時に止めました。今モルヒネを入れると呼吸を抑制してしまうから、もし痛みが出てきたらいつでも再開します…と。

そしてこんな時でも隣に座っているナツが、「お母さん、下がった…」

測ると42。ナツはこの病院で低血糖を出す事が本当に多くて、看護師さんもほとんどの方がナツの病気の事を知っています。主治医の先生まで「大丈夫?」って言ってくれました。

問題は母を病院に来させるタイミングです。今から来て夜通し起きているとおそらく後々のことができなくなってしまいます。わたしはこの時、今夜は何とかもつだろうと思いました。もし仮に2時や3時に急変してもその時呼べばいい。そう判断しました。

「子どもさんは、どうするの。お父さんは会社?」と看護師さんに聞かれて、ナツのIDDMの事情を話しました。主人は明日、どうしても午前中だけは会社に出ないといけないといっていました。もしナツを今夜家に返したら、父が亡くなった時にナツを連れてくる時間がなくなってしまう。それがいつになるのか全くわからなければ、ナツをわたしのそばにおいておくことが一番安心だから。

ベッドを1台いれてもらって、結局2台の簡易ベッドに3人で寝ました。もうランタスを打つ時間になっていました。わたしはすっかり忘れていたけれど、ナツが覚えていて自分で打ちました。父はモルヒネを切ったせいでお昼よりも若干意識がしっかりしていました。でもこちらの言うことに反応したりうなずいたりする程度で、父のほうからの言葉はほとんど聞き取れません。今思ってもこのとき一体どんなことを話したのか、不思議とほとんど覚えていないのです。そしてそんな父のそばでわたしもうとうとしていました。

ナツが父の手を握ったり、額の汗を拭いたりしながら、かなり遅くまで起きていました。ユウは熟睡していました。気がつくと日付が変わっていました。

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